【〜人を喰らう〜 コラム マグマ主義 第 1号】

人の不幸の上に自身の幸福を築くこと。これを称して「人を喰らう」というのである。貧(ひん)すれば鈍(どん)する。ここまではまだいい。欠乏という名の恐怖に脳乱した時、人は人を喰らうのである。

世間には、人を喰らう怪物や魑魅魍魎(ちみもうりょう)の類が、個人としてまた組織として跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)している。欠乏の恐怖に脳乱した精神が、これらの波長に同調する時、人は「人を喰らう行為」を自己実現の大いなる事業と錯覚する。その事業への参画(さんかく)は希望を呼び、参画後の進展は歓喜を生む。

自身にとっての「欠乏」とは何か。別の言い方をすれば、何をもって自らの充足とするのか。人は日常性の中で、このことにあまりにも無頓着である。敵を知り「己を知れば」百戦危うからずという。自身の人生の為には等身大の己を見つめ、己を知ることが不可欠だ。その上で、「等身大の自分を満たす充足」に従って歩いて行こう。人生の拡大は等身大の自分を拡大して臨むべきだ。

まずは自身が不幸にならぬために。さらには、自身が世の不幸の原因とならぬために。/終



【〜 苦労はムダにならないか? 〜 コラム マグマ主義 第 2号】

「その苦労がきっと役に立つ時が来るよ・・」友人はそう言って、失意の私を慰めてくれた。
本当に苦労が実を結び、役に立つ時は来るのか?本当に苦労はムダにならないのか?

残念ながら苦労といい経験といっても、人の評価を貰ってナンボのものだ。評価があるところに、経済面をはじめ現実の価値が生ずる。評価なき苦労は抱えるだけムダである。
ムダな苦労を抱えていては、三途の川で足を取られるから「あの世」にも行けない。

汗と涙で築いたものが巨大な苦労の山だけでは、人生あまりに無念である。

「評価の確証が無い事」に新たな苦労をする余力はもうあるまい。ならばどうすればいい。評価させる以外にないのである。自らのために、これまでの苦労を何が何でも評価させることだ。振り返ってみるといい。これまでの苦労に自分のための苦労などほとんど無かったのではないか。

人の評価の有無で自分の価値を決めるのは愚かなことだ。今まで生きてきたこと自体、自らに価値があった証拠と捉えるべきである。そして、評価させることに情熱を燃やし、生きて生きて生き抜いて行こう。そのことを誰も咎めはしない。全て自分次第なのである。自分を評価させる努力は苦労ではない。苦労からの自己の解放である。/終



【〜 戸惑いを覚えよう 〜 コラム マグマ主義 第 3号】

理不尽の猛攻で我慢が限界に達することがある。このような時、怒りのままに怒鳴り散らせればどれだけ爽快か。しかし、それは許されない。ストレスは累積しやがて身も心も蝕んでいく。不幸な話である。我々はこのような心境を「怒りを覚える」と表現する。

ところが皇室方は違った。我々下々の者が遭遇し怒りを覚える事態にあっても「大いなる戸惑いを覚える」と仰せである。なんと高尚な境地であろうか。

皇室方も我々と同じ人間である。このことに異論はあるまい。しかし、我々と決定的に違うところがあった。皇室方には、その「お立場」からの「逃げ道」が「この世」のどこにも存在しないのである。故にいかなる理不尽な事態にも「戸惑いを覚える」以外にない・・皇室方とはそういう「凄い」方々であったのだ。

皇室方を範として自分の立場を死守したいのであれば、如何なる事態にも「戸惑い」を覚えよう。そして、関係者のために尽くしぬこう。それが嫌ならさっさとケツを捲くることだ。我々下々の者には、いくらでも活路(逃げ道)があるのだから。/終




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