【パワーハラスメントは 「いじめ」】

私が体験し、ホームページ開設の動機ともなった「いじめ」は、リストラ狙いのパワーハラスメントであった。以下の内容で述べる「いじめ」とは、企業におけるパワーハラスメントを意味している。


【受難者が発信する「いじめ」のサイト】

「いじめ」の受難者自身がこれをテーマに発信するサイトが極めて少ないと感じるのは私だけだろうか。反対に「いじめ」問題の専門家や識者によって発信されるサイトは極めて多くそして多彩だ。また、それらのサイトの掲示板には、「いじめ」への対応と救済を求める書き込みが大変に多い。

ほとんどの場合、「いじめの渦中にある人」には自身の災難を取り上げる余裕など無いだろうし、「処分をされてしまった人」にあっては一日も早く忘れ去り、再起にエネルギーを費やしたいと願うだろうから、受難者の発信するサイトが少ないのはあたりまえかも知れない。

しかし、「いじめ」のサイトを発信する受難者の中には、処分されつつあり、また処分された後も、法を拠り所に果敢に現状に挑み、被害を最小限に留めようとする人がいる。さらには、現実の利がとうてい望めないにもかかわらず、訴訟にまで踏み切り、どこまでも自らの誇りの為に戦う人がいる。泣き寝入りをよしとしない受難者にとって、これらのサイトが提供する戦いのノウハウは有益である。さらなる同種サイトの出現を期待したい。


【失うものの大きさ−「いじめ」は犯罪】

こういった人々の行動は、本来享受すべき権利を取り戻す戦いである。しかし、奪われたその権利は、けしてその全てが戻って来ることはない。

理不尽の強要によって心の病に陥り、さらには自らの命を断つに至るという現実がある。その心の痛みの大きさと傷の深さは、悲惨この上も無い。如何なる代償によっても償うことは出来ないのである。かくなる「いじめ」は法の裁き以前に、れっきとした「犯罪」である。


【その悲惨を忘れさせてはいけない】

私は、反戦出版を高く評価している。戦争の悲惨を明らかにし、これを忘れさせないため、継続して訴え続けているからだ。人類最大の愚行、戦争。これが生み出す幾百万の心の痛み、心の傷。それは闇に消えて忘れ去られ、愚行は何度も繰り返される。忘れさせてはいけない。訴え続けることである。

戦争による悲惨は、人が人に及ぼす理不尽によって起こる。「いじめ」もまた同様である。私は「いじめ」の悲惨を満天下に晒したい。悪魔の爪をもぎ取りたい。だから、叫び続けて行きたい。「心の痛み」の大きさを。「心の傷」の深さを。


【「いじめ」の心はどこに?〜自身の体験的考察〜

「いじめ」によって引き起こされる絶望・恐怖などの「心の痛み」。その裏側にはこれと同じ大きさの「復讐の心」が存在している。「心の痛み」が受難によって生ずる一方、「復讐の心」は、実は受難者自身が加害者の心を理解しうるが故に、心の痛みと共に、心の闇からつむぎ出されて形成される。

虐げられた者の苦悩は実に、恐怖心と復讐心の葛藤によって生じているのである。このことは受難者にも、「いじめ」の加害者となる資質があることを示唆してあまりある。「いじめ」を行使する心は万人に内在するのである。


【悲惨を叫ぶ者の姿勢】

被害者意識に終始し、そこから発せられる悲痛な叫びは時にセンセーショナルであるが、水泡のごとく儚い。他人の不幸は蜜の味という世の人々の卑しい心根がこれを煽っているに過ぎない。一方、被害者意識は心の痛みの軽減によって薄らいでいく。そしてこれと共に「叫び」の願望もまたなりをひそめ、やがては水泡に帰していく。

「いじめ」を行使する心は万人に内在する。故に、「心の痛みを知れ!」との叫びは、同時に自らへの戒めでもある。この自覚に立ってこそ、その「叫び」は永続的なものとなり、価値ある「社会への警句」ともなっていく。


【勇気−臆病の克服/みんな仲良くしようよ】

自らの心にひそむ「いじめ」の心を克服したい。それは自分自身との「対決」であろうか。自問自答のジレンマに陥る至難な「戦い」であろうか。

しかしこれは一つの行動によって容易に達成される。それは、自発的に友人を作ろうとすることだ。心を開くことである。友人のあるところ、苦しみを共有しようとする「思いやり」が自ずと芽生える。「思いやり」の芽生えは、「いじめ」の克服に他ならない。

ところが心を開くには「勇気」が不可欠であり、これを行使できる勇者は少ない。おおかたが「臆病」に終始して自らの殻を破れないでいる。臆病者が何がしかの地位を得てすることはただ一つ、やたら威張ることである。

すなわち−
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すなわち・・臆病者に見るいじめの本質は−


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