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いじめは弱者に対する最大級の理不尽である。
これを放置してはならない。
なぜならこれは当事者だけの問題ではないからだ。
こういった理不尽の放置は、社会を支えるモラルの柱を
腐らせ、社会全体を崩壊させていく。
「いじめの心」とは他者を自らの支配下に置かずには
いられない「修羅(しゅら)の心」である。
支配出来なければ、完全抹殺を願うのである。
修羅の心は自らの願望の成就を「社会のコントロール」と
位置付け、非の全ては他者にあると捉える。
「いじめはいじめられる方にも問題がある」
という発想はその最たるものだ。
また、「必要悪」を評価する発想に至っては
何をかいわんやである。
エコノミックアニマルという言葉がある。
ここで言う「アニマル」とは、畜生の性(さが)
である「愚かさ」を称しているのである。
しかるに修羅の心は
「社会という自らの住所」を崩壊させる
という最大の愚行を現じていく。
学校や職場など集団・組織が背景となると、
いじめに対する個人の罪の意識は希薄化し、
やがて雲散霧消していく。
修羅の心に絡めとられていくのである。
これによっていじめは凄惨(せいさん)を極めていく。
草花を愛で、我が子の健全なる成長を願う親が、
組織にあっては部下に対し、また同僚に対して
平然と理不尽を行使する。
リストラを狙ったパワーハラスメントでさえ、
単なる業務の遂行に過ぎない。
当人の自覚の有無にかかわり無く、あきらかに人は、
心に「無限の可能性という宝庫」を秘めている。
また人は、幸福の追求の為に等しく
この世に生を享受している。
この「人の心」を理不尽をもって苦しめ傷つけることは、
理由の如何を問わず、自他共に「人間性」を否定しさる、
罪深き愚行と言わなければならない。
しかるに、かくなる愚行は一向に改善を見ぬまま
今日に至っている。
その「元凶」は何か?
それは、我関せずの「無関心」にこそ
あると言わねばならない。
悪を認識していながらの放置は、
悪の容認であり、悪と「同罪」ではないか。
人に迷惑をかけない限りにおいて、
人は何をしようと自由である。
しかし、悪の容認は自らの住所である社会を崩壊させる。
我即社会。社会即我なのである。
これがこの世の真実ではないか。
故に「無関心」とは、この実相を自覚しえない
疲弊した精神の顕れという他はない。
何事によらず、新生の言動の源泉は「勇気」にある。
この源泉が枯渇するところ、
人の精神は確実に疲弊していく。
いじめという理不尽は断じてこれを放置してはならない。
そして、その為にこそ、
「無関心」たる自らを変容させなければならない。
故に、当「宣言」は、次のことばをもって結びとする。
今一歩の勇気を!
以 上
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